- 瞑想の目的は何ですか?
心を自由にすることによって本来の自分になることです。
- 心を自由にするとはどういう意味ですか?
人間は生まれてからこのかた常に、親や文化や社会によって、多くの束縛を受けて育ちます。それらの多くは、社会生活を送るうえでの、ルールや常識と呼ばれるものでそれなりの価値がありますが、同時に自分への束縛力としても働きます。
それらの束縛の多くは無意識の層に入り、気付かないうちに、自分の考え方や好き嫌いや感情を支配しているのです。その支配から自由になることが、心を自由にするということです。 - 本来の自分になる、という「本来の自分」という意味がわかりません。
本来の自分とは、受けた教育や、その中で生きてきた文化や、その他の体験によって植えつけられた諸々の束縛から解き放たれた、元々そうであった状態の自分のことです。
- 本来の自分は自我から自由な自分だということですが、どういう意味ですか?
本来の自分でなくなっているのは、まわりと関わりを持つことによって、その影響を受け、影響を受けることによって束縛されているからです。
それではなぜ、影響を受けることによって束縛されてしまうのでしょうか。
それは、まわりから影響を受けると自分の中に反応が生まれ、その反応によって、自分を理解してしまうことが多いからです。
たとえば、まわりから褒められると、自分は優れていると思ってしまい、批判されるとダメ人間だと思う、などが単純なわかりやすい例です。
そのように、自らの中に元々あるものによってではなく、まわりへの反応によって自ら思い込んだ自分を自我と呼んでいます。(このように、金井メソッドの中では、一般の心理学で言う自我とは、多少意味合いが異なりますので注意してください)。
そして、そのような意味での自我は、いわば、まわりによって作られた自分ですから、本来の自分ではないわけです。 - 本来の自分になるためには自我から離れる必要があるとのことですが、自我が強い人と弱い人との違いは、どうして生じるのでしょうか?
自我は他者との関係によって作られるものですから、その関係が多くまた強いほど、自我も大きく強く育つことになります。
そして、他者との関わりは、人それぞれの人生で違いがありますから、自我の強さが人によって違うのは当然のこととなります。 - 金井メソッドとはどんなことをするのですか?
以下の三つのことをします。
- 心を開く
- 出て来た想いから離れる
- 自分を観る
瞑想を止めるときには、ゆっくりと心の中で10位数えてから止める。
- 心を開くとはどういう意味ですか?
すべてを受け入れる、ということです。
今現在の自分自身とまわりのすべてを、今あるがままに受け入れる、ということです。
その目的は二つあります。
一つは、あるがままに受け入れることによってのみ、私達は物事を正しく認識できるからです。
二つは、そうすることによって、瞑想中に新たな想いが作られにくくなるからです。 - 想いから離れるとはどういう意味ですか?
想いが出て来ていると気付いたら、その時点で、それ以上想い続けない、と意志によって、想いを止めることです。想いを止めるためには、もうこれ以上、そのことについて想わない、と意思してください。
その目的は二つあります。一つは、心を静めて自分を観やすくすること、二つは、想いから離れることこそが自我から自由になることだからです。 - 瞑想しても想いばかりが出てくるのですが?
想いがたくさん出てくる原因は、あなたの心の騒がしさにあります。
ですから、想いが出て来る状態に対して、「瞑想がうまくできない」と否定的にならずに、今の自分の状態を理解する良い機会だと受け止めてください
。
瞑想の究極目的は、心を静めるためにするのではなく、心を自由にして、本来の自分を知るためにするものですが、その第一歩として、今現在のあるがままの自分を知ることを避けては通れません。 - 瞑想すると何故いろいろな想いが出てくるのでしょうか?
瞑想していない時の意識は、仕事や家事や遊びなど、自分の外の世界のいろいろなものへ向かっていますが、瞑想をするときは、意識が自分の内側へ向かいますから、自分の中に在るいろいろな想いに気付くわけです。
さらに、瞑想が深くなったときには、それだけでなく、いつもよりも心が自由になり、無意識に閉じていた心の扉が開くことによって、隠されていた想いが出てくる場合もあります。 - なぜ人によって出て来るものが違うのでしょうか?
心の中にあるものは、その人のそれまでの人生体験の蓄積であり、それは人によってそれぞれ違うからです。
- 瞑想中に考え始め、考えるのを止めても暫くしたらまた考えてしまいます。
それでも瞑想になっているのですか?考えること自体は人間の習性で仕方のないことです。
問題になるのは、自分の考えにとらわれることです。心を自由にするためには、考えないようにするのではなく、自分の考えに振りまわされないようになることが大事です。
そのために金井メソッドでは、想いから離れるということをします。
考えない状態にならなくても、想いから離れるという作業をしていれば、それは立派な瞑想です。 - 瞑想していても想いが出て来ないのですが?
人間は想いを持たなければ生きていられませんから、想いが出て来ないのは、想いが無いからではありません。出て来ない理由は主に二つあります。
一つは、瞑想を間違って理解し、無意識に無念無想になろうとしている場合、二つ目は、遠い過去に余りに深く傷ついたことによって、想いが出て来ないように、無意識のうちに自分自身にすら想いを隠して、心の扉を閉じている場合です。 - 瞑想は、無念無想になることではないのですか?
無念無想になることではありません。
瞑想の第一目的は心を自由にすることです。
無念無想の状態でなくても、心が自由な状態はいくらでもあります。
また逆に、無念無想の状態を作れても、心が不自由な場合もあります。
無念無想に限らず、瞑想の目的は、心をある一定の状態に作ることではなく、心を完全に自由にすることです。 - 「自分を観る」という意味がわかりません。
その時の自分を、あるがままに、評価や判断を加えずに、認識することです。
- 瞑想中に想いから離れることはできますが、「自分を観る」とは、どういうふうに観ればいいのかが分りません。
観るという時に、観察の観という字を使っていることに表れているように、単に見るのではなく、見えているものの裏側にある本質を捉えよう、という意識を持って見るわけです。
しかし普通の科学的な観察とは違って、自分で自分を観ているわけですから、すなわち、主体と客体が同じわけですから、考えることによっては自分の本質を捉えることはできません。
そのために、考えるのではなく、観る、ということだけをするわけです。
従って、観るとはどのようにするのかと言えば、その時のあるがままの自分を、評価や判断を加えることなく認識するということになります。 - 瞑想中に雑念を切る作業を繰り返しますが、瞑想がより深くなれば、自分を観やすくなれるのでしょうか?
雑念は心の動きがある限り出て来るものです。従って、瞑想が深くなっても、一定の雑念は出て来るのが自然です。
しかし、瞑想が深くなるということは、換言すれば、心が静かな状態になることを意味しますから、その静けさの中で、自分を観やすい状態が生まれるということはあります。 - 瞑想を終わる時、心の中で10数えてから目を開けるのは何故ですか?
瞑想をすると、通常の場合は、先ず呼吸がゆっくりになり、さらに、すべての身体的活動が静かに落ち着いてきます。
その結果、心肺活動なども低下していますから、急に身体を動かすと、肉体への負担が大き過ぎることになるのです。 - 瞑想はいつやったらいいですか?
瞑想はいつでもどこでもやって構いません。
伝統的には、明け方の太陽が昇る時が良いとされますが、現代生活では、そのようなことにこだわる必要はありません。
自分のライフスタイルに合わせて、やりやすいときにしてください。 - 時間はどの位やったらいいですか?
長くても短くても、時間の長さは重要ではありませんが、ある程度心が静かになるには、特に初心者の場合は時間が掛かりますから、想いが出てくるのが少なくなって心が静かになり、自分を観やすくなるまでは続けると良いでしょう。
ただし、何分すると決めて無理してやっても余り効果はありません。
その時々の心身のコンディションに応じて、気持ち良く瞑想することを心掛けてください。 - 眠くなってしまうのですが?
眠くなってしまうのは、身体が睡眠を必要としているからです。
瞑想していないときは、仕事や家事などの生活をする必要から、精神が身体を支配していますが、瞑想によって精神の支配が弱くなると、身体は正直にその欲求を表すようになります。従って、眠くなったら、眠ってしまうのが身体のあるがままの状態を受け入れていることになります。
瞑想によって不眠症が治る人は多くいますが、その理由も同じです。
瞑想しなければ、と思って眠いのを我慢するよりも、自分の身体の状態を理解し、それに素直に従った行動する、ということが、瞑想の道を進む上での適切な姿勢ですから、眠いときは眠って構いません。
身体が十分に睡眠を取れた状態になれば、自然に眠たくなくなります。
このような考え方を一般論として言えば、瞑想の道を歩むときには、身体を大事にして健康を保ち、無理せずに、身体の状態に合った行動を心掛けることが大切だということになります。 - 椅子に腰掛けてできますか?
椅子に腰掛けても仰向けに寝ても、自分が最も落ち着く姿勢をとってください。
- お風呂に浸かりながら瞑想をしても大丈夫なのですか?
大丈夫です。
瞑想によって心は静かになりますが、それは昏睡などとは違って、五感は通常よりも逆に鋭くなるため、お風呂でやって危険なことはありません。
ただ、のぼせない程度でやめる必要はあります。 - 一日5分位しか瞑想ができなくても、瞑想になっているのですか?
瞑想になっています。
5分すれば5分だけ、10分すれば10分だけ心は自由になります。 - 瞑想はなるべく毎日短時間でも欠かさないでした方が良いとの事ですが、毎日の瞑想を1回よりも2、3回と回数を多くすれば、毎日1回の瞑想よりも、早く自我から離れる事が出来るのでしょうか?
自我から離れるための最も基本的なことは、瞑想によって、自分の想いから自由になることです。その意味では、1回よりも2回、2回よりも3回の方が効果があります。
しかし、もし無理をして回数を増やしているのなら、その無理故に、マイナスのエネルギーが生じますから、今度はそのマイナスエネルギーを、瞑想の中で解放する必要が生まれ、余計にしなければならないことが増えることになります。
従って、無理の無い範囲で回数を多くすることが大事です。 - 瞑想はヨーガの一種でしょうか?ヨーガとはどう違うのでしょうか?
ヨーガはインドで発達したものですが、インドでは現在でも、「ヨーガをしている」と言えば「瞑想をしている」ということを意味します。
日本では「ヨーガをしている」と言うと殆どの場合は、残念ながら、身体を整えるための体位をとる(ヨーガではアサナと呼ばれます)、または、ストレッチ体操をしている程度の理解しかありません。
瞑想はインドやヨーガに限らず、あらゆる地域、人種、宗教、文化に渡って、古来から発展し取り入れられている、人間成長や真理を得るための技法です。
ヨーガに限って言えば、瞑想はヨーガの修行体系の中では悟りの前段階として、修行の最終段階に位置付けられているものです。逆の言い方をするなら、ヨーガにおいてアサナと呼ばれる身体を整える部分は、瞑想をするための準備段階ということになります。 - 瞑想は困っている人がするものですか?
何かに困っている人は必ず自分自身に問題がありますから、瞑想することで楽になりますが、具体的に困っている問題が無くても、自分自身の人間としての成長や、真理を求めることに興味がある人なら、誰でも瞑想をする価値があります。
- 宗教との違いは何ですか?
宗教は神とか仏と呼ばれる絶対者を想定し、それを信じること、すなわち信仰を要求します。
それに対して瞑想は、絶対なるものを予め想定することがなく、また何も信じる必要がありません。
すべてを、自分が、自分の内側で、自分自身によって、判断し確認しながら進む道です。 - 瞑想しても普段と違うハッキリした感覚や変化のようなものを体感できませんが、瞑想を続けていけばそうした変化を体感できるのでしょうか?
変化を体感することは重要ではありません。
人間の体感というものは、極めていい加減なものですから、瞑想による自分の成長を、体感という形でとらえるかどうかは、その人の感性や思い込み次第だということになります。
自分の成長の変化を正しく確認するためには、瞑想中の体感ではなく、瞑想していない日常生活の中での自分の在り方によらなければなりません。 - 全てを受け入れ、想いが出てきたらそれから離れ、自分を観ることをする、というのが瞑想ですが、私は、日常生活の中で、苦しくなるとその事を考えないようによくやっています。
それは、そのまま続けていけばよいのでしょうか?日常生活の中でストレスに対処するのに、そのことを考えないようにする、というのは、一つの有効な手段です。
しかしそれだけだと、問題の原因を探り出したり、その問題の本質を理解することはできません。
それでは逆に想い続ければ良いかというと、それでは、ストレスが高まる、ということが多いわけです。
このような問題に対処するのが瞑想です。
想いから離れるという意味では、瞑想は上記のストレスへの対処法に似ているように見えますが、本質的には違うことをしているのです。確かに、ストレスがあるときに、瞑想して想いから離れれば、ストレス軽減の効果はありますが、それはあくまで、瞑想の副次的な効果であり本来の目的ではありません。
本来の瞑想は、生まれたストレスへの対処法ではなく、ストレスそのものを生じさせないような人間の在り方を求めるものです。
瞑想によって心が自由になると、ストレスとして受け止めていた現象を、ストレスとしては受け止めなくなっていくのです。
ですから、そこを理解していれば、瞑想を続けながら、日常生活の中で、苦しいことを考えないようにすることを続けていて問題ありません。 - 自分の生き方に満足して、また周囲に感謝をして死んで行く人がたくさんいると思います。そうした生き方が出来るのであれば、また毎日充実した生き方が出来ているのであれば、特に瞑想をしなくてもいいのではありませんか?
瞑想は自らの発心に基づいてするものです。
その人自身が瞑想を必要とすると思わなければ、そもそも瞑想を始めることはできません。 - 直ぐに効果が出ないなら瞑想しても仕方ないと思います。
瞑想は直ぐに効果が出るものではありません。
人間の苦しみの原因はすぐに作られたものではなく、今までのその人自身の生き方の積み重ねで作られたものです。
そうであるのに、問題をすぐに取り除き、効果を得ようという発想は、目先にとらわれ、根本に意識を向けない姿勢によるものです。
そして目先にだけ意識を向けている限り、たとえ一時的に事態が好転しても、結局は同じ過ちを繰り返すことになります。 - 何回か瞑想をして、一回だけとても気持ち良くなったことがあります。
どうしてですか?瞑想して気持ち良くなるのは、幾つかの理由があります。
身体がリラックスすること、心が緩むこと、生理的に調和が取れること、です。
特に気持ち良く感じる時があるのは、たまたまその時に、単に身体または精神のストレスが高かったために、瞑想の効果をいつもより強く感じたからか、または、その時にいつもよりも、心身が深くリラックスしたり、生理的な調和が進んだから、という理由が考えられます。 - どのぐらいし続けると本当の自分に出会えますか?
それは人によって違います。
瞑想は勉強や訓練とは違い、その効果の出方や時期も、人によって大きく違います。ですから、瞑想していて、どのくらいしたら目的を達成できるかと考えないで、日々に瞑想すること自体を楽しむ気持ちが大事です。 - 瞑想に向いている人や向いていない人がいますか?
向き不向きはありません。誰でも本来の自分でいられないのは、自分の想いにとらわれているからです。
そして、想いは、人間なら誰でも持つものであり、その想いは自らが作ったものですから、誰でも自分の想いからは自由になる可能性をもっています。
その意味で、瞑想に向いていない人はいないのです。 - 子供にも瞑想は理解できるものでしょうか、また、じっするのが苦手な子どもにも、瞑想をしてもらった方がいいのでしょうか?
瞑想は大人も含めて、理解することよりも実践が重要です。
従って子どもに瞑想を理解させようとする必要はありません。
金井メソッドは子どもにも適用できますが、大人と違う欲求を持つ子どもには、大人と違うアプローチとレベルで瞑想を教える必要があります。
じっとするのが苦手な子どもには、座ってする瞑想は、無理強いしない方が良いでしょう。
瞑想は心を自由にするためにするものですから、そもそも、子どもだけでなく大人も含めて、無理強いするのは適切でありません。