瞑想をすることで感覚が鋭くなりますが、それは五感についても、いわゆる第六感についても言えます。第六感を求める人が多いですが、それは、求めるものではなく出てくるのを待つものです。
瞑想は求めるものを得るための方法ではありません。もちろん幸せを求めて瞑想するわけですが、その幸せを得るための直接的な道具となるわけではありません。瞑想によって自分自身が変化することによって、その自分が幸せをつかみ取るのです。
自分が変化するには時間がかかります。それが本物であればあるほど時間がかかるものです。ですから瞑想することによって自分の成長を待つことだけが、本当の意味でできることなのです。
前述のように、瞑想は自分が成長するためにすることですが、その過程で、直感に限らず自分に与えられるものすべてを待つことができるようになります。待つということはとても大事なことです。今できることをして、その結果を待つ、という姿勢をとることができれば、苦しみはそれだけで大いに減少するのです。
直観も、そうやって瞑想して与えられるものの一つです。それは瞑想の直後に与えられるとは限りません。やっていれば、たとえば日常の中で、仕事しているときとか、遊んでいるときとか、眠るときとか、眠りから目覚めたときとか、そういう思いもよらないときに出てくることが多いものです。
どのような瞑想をしても、基本的に金井メソッドが提唱する三つのことを続けていれば、その人にとって必要なことは必要なときに与えられるものです。逆を考えてみればわかるでしょう。心を開かなければ受け取ることができません、自分の想いにしがみついていれば新たなものはやって来ないでしょう、そして自分自身を観て知ることがなけえれば本当に必要か否かの判断はできないでしょう。
直観力はそういう意味では、瞑想によって得るまたは得られないものの典型です。自我が強い人に直観力が増えると、一時的には自分も満足し周りも称賛するようなことになりますが、結局はその人に不幸をもたらします。自分の成長に見合ったものでないからです。
心を開き、想いから離れ、自分を観る、という三つを愚直に続けていれば、その人の成長に見合った直観力が、他の良きものと同様に、自然と身につくものです。