人間の幸せはその人がどのような行動をとるかで決まります。自分や周囲にマイナスを作るような行動をとる人は不幸になり、プラスを作るような行動をとる人は幸せになります。ここで言う行動とは広い範囲のものを意味し、具体的な行為だけでなく、たとえば考えるということも含まれます。
そのような意味での行動は何によって決められるのでしょうか。それは考えなどの明確な判断に基づく場合もあるし感情などの合理性に欠けるものに基づく場合もあります。しかしどちらにしても、行動は想いによって決まるのです。
ここで理解をやさしくするために、言葉の定義をしておきたいと思います。想いと考えとの違いは、考えとは判断や選択をするためのプロセスであり、一方想いとは、一定の目的のためにするものというよりも、普段からのその人の在り方の表現として存在するものです。たとえば、「あの人が好きだな~」と感じている場合、それは想っているのであって、考えているというわけではない、といった具合です。つまりどのような正当化の理屈をつけても、その人の行動は、その人の普段からの在り方によって本当のところは決定しているということなのです。
それでは、想いは何によって決められるのでしょうか?それは一般的に理解されているほどに主体的なものではなく、その人の過去の体験によって強く影響されているのです。不幸な環境に育った人は幸せを想うよりも不幸を想うことが多くなり、幸せな環境に育てば、不幸よりも幸せを想うことが多くなるのは当たり前です。飢えた体験のある人は飢えを恐れ、美食に慣れた人は飢えを想うことがありません。過去の体験こそが、その人の想い、つまり普段の在り方を決定付けているのです。
このようにして、幸せになるためには幸せになるためにプラスの行動をする必要があり、そのためにはプラスの行動をするような想いを普段から持っている必要があり、そのためにはプラスの想いを作り出すような体験が必要だということになります。
しかし体験は過去に属するものですから、今どうにかすることはできません。プラスの行動は努力をすることはできますが、そればかり意識するとストレスが高まり抑圧をため込むことになります。さらに悪いことには、想いに基づかない良い行動は偽善となりやすいものなのです。ですから結局は想いをプラスにすることが最も必要なこととなるわけです。しかしここでも無理にプラスの想いだけを持とうとすると、ストレスや抑圧が生じるだけでなく、非合理的な考えを持ったり、無知蒙昧に走ったりする危険が生じます。
そこで瞑想が必要になるわけです。プラスの想いを意図的に作りだそうとせずに、逆に想いから自由になることで、想いに支配された行動をとらなくなる、それこそが人間として幸せに近づく唯一の道だという点にこそ、瞑想の本質があるのです。