バクティの真価ー2019年5月8日
インドでは、修行の道(ヨガ)に3種類あるといわれます。カルマヨガ、ギャンヨガ、バクティヨガの三つです。カルマヨガとは行為によって悟りを開く道、ギャンヨガとは知識によって悟りを開く道、そしてバクティとは愛によって悟りを開く道です。
三つの道すべては、苦しみの原因である自我から自由になり、本来の自己の在り方へと進む道ですが、それぞれに特徴があります。今回はバクティの道とは何かを説明しましょう。すべての道は上記のように自我から自由になるための方法論ですが、バクティの場合は、自我から自由になるために愛の道を歩みます。
一般に言われる愛にはいろいろな種類があります。親子の愛もあれば恋人同士の愛もあれば、愛国心や人類愛のようなものもあるでしょう。どのような愛であっても、相手のことを想い相手のためを思って、自分の欲望や感情を抑える部分が含まれます。
しかし大きな問題は、自我の狡猾さによって、相手のためを思ってと思いながら、ほとんど無意識に自分の欲望を満足させるために言動することがあることです。
親子であれば、子供のためを思ってと思いながら、実は自分の欲望を満たすために何かを不必要に強制したり、逆に子供を守るためにと思いながら、実は自分の不安を避けるために何かを禁止したり、というケースが多いものです。
恋人同士の愛の場合も同じです。相手のためにと思いながら、実は自分の欲望に基づいて相手を束縛したり支配する場合、逆に相手の要求に従うことが愛だと誤解して、依存心を強めたり相手に捨てられる不安を消そうとしたり、といったケースが多いものです。
このように表面上は自分の自我を抑えて相手を大事にするという場合の逆もあります。親子で言えば、親なのだから、子供なのだから、子の、親の、面倒を見るのは当然とする場合。恋人同士で言えば、恋人なのだから、~をしてもいいのだ、~して当然だ、というケースです。同じことが夫婦の間でも日常茶飯事に起きます。
そしてこのような言動が繰り返されると、一方は自我を強めることになり、他方は自分を優先できなくなる、という結果を導き出します。このようにいわゆる愛によって自我から自由になろうとしても、無意識に自我を強めたり、逆に自分を抑えることばかりになってしまう危険があるのです。
このような意識化しにくい問題を解決するためにバクティの道があります。バクティの道とは神やグルを愛することによって自我から自由になる道です。その前提は神やグルには自我が無い(少なくてもバクティの道を歩む人にとっては)ことです。従って愛する相手の自我が原因で自分の自我が強まる心配がありません。残る問題(リスク)は自分の自我だけになります。
バクティの道を歩んでいて苦しみが生じれば(必ず生じます、生じない人はすでに悟りを得ている人だけです)、その苦しみによって自分のどのような自我が働いているかを知ることができるのです。神やグルを愛するということは、言葉を変えれば受容するということです。受容した状態で自分の心に何らかのマイナスが生じるならば、それは自分自身の自我の働きであることが明らかなのです。
また愛に基づいて神やグルの意に添おうとすれば、そこには喜びだけがあり抑圧はないはずです。その点も道を歩みやすくする働きがあります。このような理由によって、バクティは神に認められた人だけが歩める最高の道だといわれるのです。
神やグルを愛することは誰にでもできるわけではありません。前述のカルマヨガにしてもギャンヨガにしても、スタートは自分に強制することができます。頑張って努力することができます。しかしバクティの道は、その始まりにおいて自分に強制したり努力することができません。愛は強制や努力によって始まるものではないからです(もちろん歩みを始めた後に進んで行く途上では自我による苦しみを理解しそれを超えるための努力が必要になります。それは普通の人の愛(自我の愛)から出発して神の愛(大いなる愛)へと進化する道だからです)。
バクティが神から選ばれた人にとっては最高のそしてもっとも歩みやすい道だといわれる所以です。