根拠のない勘が働いたりフト思いついたりすることは誰にでもあります。そのような現象は潜在意識からの情報を受け取ったときに起きるものです。潜在意識の層にはいわゆる個としての経験(自分が考えたことや体験したこと)からの情報だけでなく、個を超えた世界からの情報も存在しています。その結果、勘働きや思い付きには個を超えた情報が含まれることになるわけです。
そのようにして得られた情報が、根拠のない情報、すなわち勘や思い付きと言われるものなのです。ですから、勘働きやフト思いついたりすることの内容には、普段私たちが意識している顕在意識と意識していない潜在意識との両方からの情報が混在していることになります。
しかし普段私たちが意識している顕在意識がもっとも強くとらえるのは、当然ながら顕在意識の中で起きた事柄ですから、顕在意識の在り様によって、勘や思い付きの内容は大きく影響されることになります。
人間の顕在意識の在り様にもっとも大きな影響を与えるのは、恐れと欲望です。この二つによって決定された意識状態で、人間は毎日を過ごし自分のまわりへの対応を決めているのです。この二つは人間の生存のために必要なものですが、同時にそこにとらわれが生まれると、意識状態のバランスが崩れ、歪んだ顕在意識の状態になります。あるがままのものをあるがままにとらえられなくなるのです。その結果、顕在意識からの情報を多く取り入れ続けている潜在意識には、歪んだ情報が蓄積されることになってしまうのです。
その結果、勘働きや思い付きも歪んだものとならざるを得ません。ですから、勘働きや思い付きを活かして人生を上手に生きようとするのであれば、純正な情報を顕在意識がとらえ、それが潜在意識に蓄積されるようにする必要があります。そのためには、世界で起きていることを、あるがままに受け取ることが必要となります。そのためには上記で述べたように、恐れと欲望から自由であることが必要となるのです。
恐れと欲望から自由であるとは何を意味するのでしょうか?人間がなすすべての悪の根源は恐れです。恐れに基づいた言動は必ず自分か他者を傷つけることになります。欲望に基づく言動は、必ずしも悪ではなく、多くの場合に素晴らしい実りを生み出しますが、時として苦しみの原因にもなり得ます。そして苦しみが生まれればその結果として恐れが生み出されるのです。
ですから、恐れは作り出さないようにし、欲望に対しては評価と判断をすることが必要なのです。このような意味において恐れと欲望から自由になるためには、心が開かれていなければなりません。心が開かれていれば恐れは生じません。なぜなら、すべてを受け入れることができるからです。またすべてを受け入れている状態でする判断や評価に間違いは生まれません。なぜなら、あるがままをあるがままに見ることができるからです。従って、瞑想によって心の縛りから自由になるということが、心を開き正しい勘働きと思い付きを増やすためにはどうしても必要なのです。
瞑想によって心が自由になることで、結果として恐れと欲望から自由になり、その結果として純正な情報が顕在意識から潜在意識へと蓄えられ、その純正な情報に基づいて、将来に正しい勘働きや思い付きが可能になっていくのです。このような理屈から言えば、勘を働かせるために超能力を訓練することなどは無意味だと分かるはずです。自分の心を自由にせずに、能力によって潜在意識の情報を操ろうとするのは極めて愚かなことなのです。
勘働きや思い付きについては、上記で述べてきたように、その内容の正しさが重要ですが、実はそれ以前の問題があります。それは、潜在意識から顕在意識に出てきた情報を、内容の如何に関わらずとらえることができるかどうかです。この点については、一種の感受性の問題なので個人差がありますが、もっとも基本的な条件は、自分に対して心が開かれているかどうかです。
自分自身に心が開かれていれば、潜在意識から顕在意識が情報を受け取ったときに、それをはっきりと意識することができますし、自分に対して心が開かれていないと、自分自身の意識にも否定的な要素が多いために、せっかくの情報を見過ごしたり、または意識できても否定したり、マイナス状態によって誤った解釈をすることが多くなるのです。
ですから、心が自分に対して開かれていることは極めて重要であることになります。瞑想は他者のためにするのではなく、先ずは本当の自分自身を得るためにするものです。自分を受け入れることができた時に初めて心を開くことができるのです。
私たちは誰でも完全ではありません。恐れもあるし欲望からも完全に自由であるわけではありません。従って完全に常に正しい勘働きや思い付きを得ることができるわけではありません。しかしそれをできる限り正しい方向へ改善していけば、私たちが持っている潜在意識という素晴らしい財産を活かすことができるのです。
そのために、瞑想だけでなく、行動面でできる努力があります。勘働きや思い付きがあったときに、それを評価判断したうえで大きなリスクを伴わないのであれば、それに基づいて行動してみることです。そしてその結果を出したうえで客観的に判断するのです。そうすることによって、勘働きや思い付きの精度を評価することができます。
このときに注意すべきは、人間は成功したときのことをよく覚えていて、失敗したときのことは忘れがちだということです。そのような片寄った判断をしていると、勘や思い付きにとらわれるようになります。当たったときのことをいつまでも覚えていて当たらなかったときのことは忘れてしまうのです。そのような片寄りが生じると、勘働きや思い付きに依存するようになります。精神世界が好きな人に多く見られる傾向です。
上記のように、完全な人間でない限り完全な勘働きや思い付きは望めませんから、そのような依存は非常に危険なことになります。そのような片寄った評価をしないように気をつけて、自分の勘働きや思い付きを活用する人生にしたいものです。
このような視点から考えた場合の理想の人生は、常にどのような環境でも、勘働きや思い付きによって言動できる人間になることです。それこそが完全に心が自由になったときの生き方です。瞑想によって心を自由にし、精神世界にとどまらずに現実生活の中でも、心の赴くままに言動し、その言動が自分と世界の幸せへとつながるような生き方こそ、瞑想する人間が目指す理想なのです。