瞑想をしても辛いことが無くならないという人がいます。瞑想は苦しみから逃れ幸せを手に入れるためにするわけですから、瞑想しても辛いことが無くならないのでは瞑想する意味がありません。
それでは、瞑想しても辛いことが無くならない場合は何が問題なのでしょうか。先ず必要なのは、瞑想によって苦しみから逃れるということは、自分自身の変化によって苦しみから逃れるのであって、苦しみの原因になっている(と本人が思っている)物事を変えることによってではない、ということを理解しなければなりません。そして自分自身が変わるには一定の時間が必要だということも受け入れるしかありません。
このように自分自身が変化することで苦しみから逃れる方法が最も根本的な解決であることは明らかです。なぜなら、自分自身が変わらない限り、そのときに苦しみの原因である事象を変化させることができたとしても、同じようなことが人生では繰り返し起きることは避けられず、その度に問題を解決しなければならないからです。一方自分が変化することで解決すれば、同じ出来事が起きても、苦しみにはならなくなるからです。ですから瞑想し自分が成長して苦しみから自由になることが究極の解決となるわけです。
しかし瞑想によって自分が変化するには長い時間が必要です。そのために、対症療法的な取り組みも必要になります。以下に瞑想者として、どのような方法があるかを説明しましょう。人生において、辛いことや苦しいことが続く場合に、解決を求めるところは二つあります。 一つ目は、事象そのものを変えることです。この方法は最も単純で直接的なので、一般に誰でも最初に試みるものでしょう。この方法が有効な場合は当然のことながら、この方法だけで問題解決ができます。しかし、この事象そのものを変えることは、簡単にできる場合は少なく、多くの場合は、「できない」、「難しい」ものなのです。簡単にできることなら、最初から辛い苦しい問題にはならないからです。
けれども、人生において、何もできない、という問題はあり得ません。完全に解決できなくても、多少でも自分にとって楽になるように変化させることは可能なのです。「できない」とか「難しい」と思ってしまう原因は、他のことを今のまま同じ状態で維持しながら、辛いことや苦しいことだけを排除しようとするからなのです。
何かを得るためには何かを払わなければなりません。犠牲を払わずに何かを得ることはできません。それが宇宙のルールです。犠牲を払うためには覚悟が必要です。問題の事象を変化させようとするなら、先ず覚悟をすることです。どの程度までの犠牲を払う覚悟をつけられるか、それを判断することが先決です。そしてその覚悟の範囲での行動を実行することです。そうすれば、その程度の変化を作り出すことは誰にでも可能なのです。
しかしこの方法で解決ができない場合には二つ目の方法が必要となります。それは、問題事象への見方や理解の仕方を自分が楽になるように変える方法です。物事はどのようにそれを見るかでまったく違う様相として現れるものです。
直接的な解決が難しい問題については、それを、自分が何かを学ぶ機会としてとらえることによって、苦しみは半減します。そこから何かを得ることができれば、辛さや苦しさの代償となるからです。しかし、ここで注意しなければならないのは、それがいわゆるプラス思考の誤った適用にならないことです。プラス思考は多くの場合に、自分を慰め納得させるためになされるからです。そのようなことをして問題から目を逸らしている限り、問題の原因を考え反省して学ぶことによって同じ問題を繰り返さない、という生き方はできません。
その問題から本当の意味で学ぶことによって、自分が成長するようにすれば、事象そのものを変えることができなくても、辛さや苦しみを減少させることができるのです。