醜い心をどう考えるか

人間は誰でもどこかに醜い心を持っています。たとえば、自分だけがよければよいと思ったり、自分や他者を誤魔化したり、他者に対する冷たい反応や攻撃的な心が生まれたり、といった具合です。
このような心が生まれる源は自己保存の本能なので、もともと人間にとってある意味必要なものです。それが社会生活の中では逆に自分にマイナスに働くことが多くなったために、醜さという評価を与えられるようになったわけです。
醜いとか美しいというのは、文化が生み出した基準に過ぎません。それに対して自己保存本能は時代や地域を超えて人間の本源に基づいているものです。ですから自分の心が醜いと感じたときには、先ずは自分を責めずに許容することが大事なのです。醜さがまったくない人間を目指すことは、幸せになるために必要ないのです。
しかし同時に、一定の文化や社会の中で生きていくしかない私たちは、その文化や社会の中で醜いとされているものを避けた方が生きやすいことも事実です。避けるとは、その存在を無くすのではなく近づかないということです。つまり近づかなければ実害がないということになります。
ですから、他者の醜さに近づかないことはもちろん、その醜さを攻撃することも避けた方がよいでしょう。同時にに自分の内側の醜さについて言えば、近づかないということは不可能ですから、言動による表現を避けるということになります。表現さえしなければ、自分の心の醜さを許容しながら、醜さを忌避する自分や社会の中でのマイナスを作り出さないで済むのです。
自分の醜さを他者に向かって表現しないことはもちろん、自分自身に対しても表現しないことが大事です。自分の醜い心に気づいたら、「自分にもこのような醜さがあったのだな」と認めて、それ以上それについて考えないことです。考えなければ表現しないことになるのです。
そのような姿勢で生きていると、言動面では内外にマイナスを作らないとしても、自分の心の中では、人間という存在の悲しさを感じるようになります。どうしようもない人間の醜さや弱さを受け入れながら生きることは悲しいことです。
しかし、悲しみは自分や他者を責めたり否定することによって生まれるマイナスよりはずっと実害が少ないのです。幸せな人生を築くためには、道徳や常識に縛られて自分を否定することなく、幸せへと進むために必要なことを深く考え、そのための行為を実行する、この3点に集中することだけが大事です。