ひどい出来事に対してどう考えるか

最近ニュースで報道されている日中韓の軋轢にはじまり、世の中には常にいわゆる「ひどい出来事、憎むべき人、悲しいこと」が存在することを、私たち
は毎日のように知らされます。私たちはそのような情報に接すると、心が動きますが、その内容は多くの場合に、怒りや不安や悲しみです。

その中でも特に怒りは強いエネルギーのために行動へと人間を駆り立てることが多いのです。「このような理不尽なことが世の中にあってよいのか」、「こんな人は許せない」といった気持が高まり、直接的間接的な行動を引き起こします。怒りは感情エネルギーの中でも特に強いものですから、行動も強いものとなりがちです。

しかし、考えればわかることですが、怒りに基づく行動は必ず怒りを呼び起こすために、最終的には解決の手段になりません。冷静に客観的にみれば、どのような酷いことでも、それなりの背景や理由があり、その全貌を知ることは当事者以外にはできないものです。そういった背景や理由をどのようにとらえるかは、基本的には、自然に湧き出る人間の感情に基づいて形成されるものです。一方法律は社会の安定を目的として人間が作り出したものです。その結果、「ひどい出来事や憎むべき人や悲しいこと」の善悪と法律は必ずしも一致しないことになります。

社会的にはまたは常識的には悪いことやひどいことであっても、その背景や理由を知れば、なぜそのような事態になったかを理解できます。そして理解することができれば、他者を批判することは難しいことになります。自分の在り様を瞑想によってあるがままに認識するようになればなるほど、自分と他者とが同一の存在価値であることがわかり謙虚になっていきます。謙虚になればなるほど、「ひどい出来事や憎むべき人や悲しいこと」の背景や理由のなかに、自分のなかにあるものと共通するものがあることを意識できるからです。従って、謙虚な人にとって、ニュースになるような「ひどい出来事や憎むべき人や悲しいこと」について単純に社会正義を振りかざすことは難しくなります。

社会正義というものは、問題を糾弾し批判し罰したり、または同情し奉仕する、という行動に人間を駆り立てます。社会正義が必要無いと言っているのではありません。社会正義を貫くことは社会全体にとって必要なことです。それは社会のシステムや構造を変えることにつながるからです。しかし、それによって得られるものは、社会を全体としてより良くする枠組みや方法なのであって、そこに存在する最も大切な人間そのものの問題を解決することには役立たないのです。

人間の問題を解決するためには、一人一人の人間が自分自身を変えていくしかありません。社会のシステムや構造や運営方法をより良くすることも必要なことですからその努力も必要ですが、それはあくまで社会全体の仕組みの問題であって、社会の中身を良くするためには、人間の中身を良くするしかないのです。