社会正義と瞑想

テレビやインターネットで配信されるニュースによれば、多くのいわゆるヒドイことが日々起きています。去年の大震災や原発問題のような大きな災害への対応にはじまり日々の小さな事件に至るまで、世の中にはヒドイことが多く起き、それを毎日見聞しているのが現代生活です。そして多くの場合、そのようなヒドイことに対して怒りを覚えるのが良心的な社会人の平均的な反応でしょう。そんなにヒドイことや理不尽なことがあってよいのか、と思うわけです。

そのような反応そのものは、人間としての良心や正義感から生まれるのですが、それが怒りを通して表現されるとマイナスを生み出すことになります。怒りは人間が生み出す感情エネルギーの中でも特に強いエネルギーですから、怒りに基づけば、人間は強い行動をすることができます。しかし、怒りは必ず怒りを呼び起こすことになるので、たとえそれが良心や正義感に基づいた行動でも、最終的な解決の手段にはなり得ないのです。

しかし、このような問題以前に実は、ヒドイという情報そのものの内容に関する問題があります。どんなにヒドイように見える事柄にも、それなりの理由や背景があるものです。そのすべてを網羅した情報を得ることはできません。ある事柄の全貌を知ることは、たとえ当事者といえども人間にとっては不可能であり、ましてや単にニュースやインターネットで一方的に知らされる人にとっては、その事柄のほんの一部しか知り得ない、というのが本当のところでしょう。それを忘れて、怒りにかられたり逆に不安にとらわれたりしてニュースなどに踊らされるのは愚かさ以外のなにものでもありません。たとえ与えられた情報を全面的に信じないとしても、自分なりの判断だけで怒りや正義感を振りかざすのは、愚かなだけでなく傲慢であるとすら言えます。

社会正義を実現するために法律があるという考えがありますが、法律というものの一面には、そのような人間の判断と情報の不完全性との妥協点を作り出すという意味もあるのです。すべてを知ることができない人間にとって、一定の決まりごとを設定し、事柄の全貌が分からなくても、その決まり事に背いたときに罰することにするわけです。

しかし、法律の目的は一人一人の人間ではなく社会というものの安定を目的とするものですから、必ずしも各個人の善悪の判断と合致するものではありません。つまり、法律的には悪であっても、または表面的な見え方や常識的な判断ではヒドイことであったり悪いことであっても、それがそうなった背景や状況を知ることによって理解が生まれ、理解が生まれることによって、他者を批判したり裁くことは難しいということが起きてきます。しかし、社会という単位で考えれば、社会正義は必要でありその実現の努力が要求されます。

このように考えてくると、社会正義が意味を持つのは、そのようなヒドイ事柄が再び起きないようにする努力の基礎となる限りにおいてだということになります。そうでなければそれは単なる感情論にすぎなくなります。上記で触れたような愚かさに基づいて社会正義を振りかざし、問題を糾弾し批判し怒りをぶつけ罰することも、またはヒドイことの被害者に対して単に同情し奉仕活動をすることも、ともに真の意味で社会正義を確立することにつながりません。

その可能性は我々一人一人が自分自身を変えることによってしか生まれないのです。真の意味の社会正義は、個人の感情や行動、または社会的な法律や制度といった、人間の外側の世界での働きによっては実現できないのです。外側の世界の変化は外側の世界への影響しか作り出しません。ヒドイことの根本原因は一人一人の人間の心にあるのですから、人間の中身を変えるしかないのです。社会的なレベルでの制度や構造やシステムを変えることも必要なことですが、それはあくまでその社会に属しそれを構成している一人一人の人間の心を社会という全

体に反映しやすくする、という意味においてだけなのです。このような考え方は、なにもニュースになるような大きな事件や事故についてだけではありません。私たちの日々の生活のなかでも頻繁に遭遇している体験なのです。人間が心の安定を獲得するためには、その人なりの正義という観念が必要です。しかしそれは自分の行動規範として必要なものなのであり、社会を良くするためである必要はありません。社会をよくすることについては上記の社会正義という概念に任せればよいのです。自分の生き方に反映する正義とは、自分自身のためのものであり、他者を裁くために備えるものではないのです。

さらに根本的には、前述のように、日々出会う出来事に対して、その全貌を知らないという事実を理解するだけでも、安易に他者を批判したり裁いたり、ましてや攻撃することはなくなるはずです。そのような心になることが、瞑想において第一にする受け入れるということであり、心の平安を手に入れる秘訣なのです。