意思と宗教と瞑想の関係

人間にとって意思こそがすべてのスタートとなります。いわゆる運命論は意思の働きを否定しすべてが意思を超えて予め決まっているかのような主張をしますが、そのような考え方は瞑想者の発想ではありません。

実際のところ、すべてが予め決まっているかどうかは証明の方法がありません。決まっていたとしても、その内容をその事象が起きる前から完全に知ることができない以上、運命論を証明することはできません。しかしそのことは同時に、予め決まっていない、と証明することもできないことになるわけです。ですから、このような論議をするときに、どちらが正しいか考えるのは意味ないことになります。どちらが正しいか分からないということですから、結局はどちらに考えるのが今の自分にとって都合よいのかという基準で選ぶしかないのです。そのような考え方をとれば、予めすべてが決まっていると考えるよりも、自分の意思で自分の人生の将来を切り開くことができると考えた方が建設的な人生を送ることができるでしょう。しかし勿論、意思はオールマイティーではありません。いくら意思してもそのようにできなかったりならなかったりすることも多いものです。その場合に、すぐに運命論に傾くのではなく、意思が通らなかった理由について考えるという姿勢が大事なのです。そこにこそ思考の価値があります。思考そのものが人生を切り開くのではなく、思考することでよりよい意思を働かせることが人生を切り開く力となるのです。

このように、意思はオールマイティーではないとしても、人間のもっている可能性を主体的に実現するための最初の出発点なのです。ですから、大事なのは先ず最初に意思することであり、次に意思に基づいて行動をし、意思した結果を生み出さなかったときには、その理由を思考することが必要となるのですが、思考しても納得のいく原因が見つからないこともあります。そのときに初めて、自分よりも大いなるものの力を意識する必要性が出てきます。

自分(人間)の力を超えた大いなるものの存在を否定するわけにはいきません。少なくても今現在の自分(人間)の理解を超えたものが存在することは、自分(人間)が世界のすべてを理解し知っていると言えない限り、事実として認めざるを得ないからです。そのように考えると、大いなるものの存在を意識することは、逆に自分(人間)の意思を正しく理解し使ううえでも必要なことであることが分かるはずです。

その大いなる存在を神を通して意識するのが宗教であり、自分を通して意識するのが瞑想なのです。その両者の違いは、自分以外の存在である神を通して大いなるものを理解する宗教においては、神が絶対となるために自分(人間)の意思は後回しになり、自分を通して大いなるものを理解する瞑想は、そもそもの出発点であった自分(人間)の意思が最後まで主役を演じることとなります。