自分を守る意識の問題点

自分を守ることは人間にとって当然でありまた必要なことです。ですから、自分を守ろうとする意識そのものは大事なのですが、それが過剰になるといろいろな問題を引き起こします。

その最も典型的なものが、人間関係についての問題です。自分を守る意識が過剰にあると、一見相手のためにしているようでも、実は自分がマイナスを受けないためにすることが多くなり、一時的には自分と相手を誤魔化すことができても、結局はその意図(多くの場合に無意識ですが)は相手に分かってしまい、せっかく良いことをしても相手からの評価や協力を得られないことになるのです。

それだけではありません。そのような言動を繰り返していると、自分自身も生きていることに空しさを感じるようになるのです。なぜなら、自分を守る意識が過剰だと、愛のある人生を築くことができないからです。

人生というものは、健康や社会的な成功や経済的な豊かさを得ても、そこに愛が無ければ空しいものになってしまいます。愛という言葉は大げさに聞こえるかもしれませんが、それほど立派な愛でなくてもよいのです。日々の生活の中で、なにがしかの愛を感じることができれば、そのとき人は他に代えることのできない喜びを感じるものなのです。愛が人生の中でまったくなければ、本当の生きる喜びを味合うことはできないのです。

愛がそこにあるためには、相手の立場に立って考えることが必要です。そして、自分を守る意識が過剰でないときに初めて、人は本当の意味で相手の立場に立って考えることができるようになります。

逆もまたしかりです。相手の立場に立って考えることを繰り返せば、自分ばかりを守る意識は薄らぐものなのです。しかし難しいのは、自分を守る意識が、過剰になるとマイナスを生み出すのと同様に、相手の立場に立って考えることも、過剰になれば常に自己犠牲を自分に強いることになってしまいます。無理をして(自分を抑えて)相手のためを考えるようになるからです。

ですから、相手の立場に立って考えるようになるのは、自分を守る意識の過剰さが無くなった結果として現れるものであるべきです。目的ではなく結果として求めるべきものなのです。いわゆる道徳的な考えで、相手の立場に立って考えるとか、相手のためを思ってとか、よく言われますが、それは自分を守る意識の過剰さから自由になるための手段としては不適切なのです。

ではどうすればよいのでしょうか?自分を守ろうとするのは、自分が何らかの意味で傷つくことを恐れるからです。傷つくと思えば自然の反応として自分を守ろうとするのが人間です。それを避けることはできません。

ですから、自分を守る意識の過剰さから自由になるためには、自分が強くなるしかありません。強くなれば自然に余裕ができ、余裕ができれば自然に相手の立場に立って考えることもできるようになります。

自分が強くなるとは、相手を屈服させる強さではありません。自分が傷つくことを恐れなくなる強さです。しかし上記のように、自分が傷つくと思えば自然に自分を守ろうとするのが人間です。ですから結局、自分が傷つかないと思える人が強い人だということになります。もしくは、傷ついても決定的なダメージにならないと思える人、と言った方が正確かもしれません。

良い例が、多くの借金をして返済できなくなり自殺する人がいる一方で、それをばねにして立ち上がり、事業に成功する人もいます。失恋して自殺する人もいるし、傷心から立ち直りさらに魅力的な人間に成長する人もいます。

つまり、他者によって自分の存在が左右されない人ということです。マイナスを受ければ誰でもマイナス感情が生まれます。それは人として自然な反応です。しかしそのマイナス感情がいつまでも自分を支配しないということです。またそのマイナス感情に基づいて言動をしないということです。

そのような人になるためには、自分の内において、一時的に激しく動いている感情や、作られては消えていく想いの裏側に、いつも変わらない本当の自分というものが存在することを、意識できるか否かが分かれ道となるのです。それが分かれば、自然に「自分が強くなる」ことができるのです。