寂しさからの解放

寂しさを感じることは人間として自然な感情です。人は人から生まれ、人と関わりながら生きているので、本能的にいろいろな意味で人と関わりを持っていたい存在なのです。ですから、それは人にとって必要であるだけでなく、喜びの源でもあるのです。そのような人間にとって、関わりを持ちたいと思っているのに持てないときに、寂しいという感情が生まれます。自分が世界の中で一人きりだと感じるのです。

ですから、寂しいと感じること自体はときとして当然のことなのですが、寂しさがとらわれになってはいけません。精神世界を勉強していると、寂しさを感じるのはとらわれがあるからだと考え、とらわれから解放されることを第一にすべきだと主張する人がいます。しかしそれは、人間本来の自然な在り方を否定するものとなり、困難であり且つそれこそ寂しい道を歩むことになります。

人との関わりによって喜びを得ることは問題ありませんが、それを失うことで苦しみを得ることが問題なのです。苦しみを得る原因はその対象に依存しているからです。

それではその対象に依存するのはなぜでしょうか?それはその対象以外に喜びを得ていないからです。依存というものは、代替が存在しないときに生まれるものだからです。ですから、あなたはいろいろな喜びを得る努力をしなければなりません。それが人生を豊かにするだけでなく、とらわれを生みにくくする生き方なのです。

今得ている喜びを失うことは辛いことであり悲しいことです。だからといって、苦しみを避けるために喜びを避けるのでは、人生を生きる甲斐がありません。喜びを楽しむと同時に、やがてそれが去っていくことを予め承知しておくことが必要なのです。ですから、いろいろな喜びをなるべく多く得るように工夫と努力をする生き方が大事です。

しかし、たとえそうしても、一度得てしまった喜びは意識しなくなってしまう人もいます。自分が持っているもの、与えられているものは、日常のなかで当然のものとなり、それ以外の自分が持っていないもの与えられていないものにばかり意識が向いて、不満と不平を募らせるのです。どのような境遇の人でも、自分に不足しているものは必ずあります。同時に自分に与えられているものも必ずあります。ですからどちらに意識が向くかで、喜びを見出すか不満を見出すかが決まるだけのことなのです。

そして、喜びに意識を向けることができるのなら、さらにもう一歩進んで、自分が得ているいろいろな喜びを均等に意識することが大事です。すべての喜びが一度に無くなることはありません。しかし、一つの喜びだけに意識が向き、他の喜びを意識できないでいると、その一つの喜びが無くなるとすべてが無くなったように感じてしまうのです。人生では、すべての喜びが無くなることも、すべての苦しみが無くなることもないのだ、ということを覚えておいてください。

そしてあなたがさらに高みを目指すのであれば、永遠に無くならない喜びを求めるのであれば、それは自分の内に見出すしかありません。去ることのない喜びは自分の内にある喜びだけです。その喜びを見出すために私たちは瞑想をしているのです。