自児童虐待と前世やカルマの考え方

最近は児童虐待の問題が多くなり、被害者であるその子どもが何故そのようなひどい体験をしなければならないのか、それについて考えた方から質問を受けました。

その方が到達した答えは、その子どもが、なにか前世で悪いことをし、そのカルマを今生で解消している、というものです。その答えは正しいでしょうか、という質問でした。

この場合、その人にとっての問題は、答えではなく、問いにあります。何かを考えるということは、当然のことながら、答えを求めてする行為です。そして、何故答えを求めるのかといえば、その答えが自分に何らかのプラスを与えてくれるからです。

しかし、大事なのは、その答えがどのようなプラスを与えてくれるか、なのです。もしそれが、自己満足の為のもので何ら価値を生み出すものでないのなら、そのような答えを求めること、つまり問いを発することには意味がありません。

ここで再確認しておく必要がありますが、論点は、虐待という問題をどうするかではなく、その子どもが虐待を受ける必然性を理解しようとすることです。そのような問いにどのような意味があるのでしょうか?その問いに対する答えを得たとして、自己満足や自己逃避以外に、どのような価値を得ることができるのでしょうか?

問いは、価値ある答えを得るためにすべきであって、価値の無い答えを得るために発してはなりません。それをすれば、有限な時間の中で生きている私たちにとって、価値ある問いを発することは難しくなるでしょう。

人生の目的はいろいろな言い方がありますが、一つは、「多くの体験をし、且つ、それ等から自由になることである」と言えます。虐待を見聞し、その子どものカルマや前世を想像することによって、どのような自由を得ることができるのでしょうか?かえって、無理やり(確かめることのできない)原因を考えることによって、その原因としたものに縛られることになるのではないでしょうか。

自分が過去に縛られない生き方を目指すのであれば、他者についても、今の状態の原因を過去に求めて、その過去によって今を固定化することは避けなければなりません。