真理を得るために瞑想することは、瞑想本来の目的ですから大変好ましいことです。真理を得るということは、知識を得たり理解をするということとは違います。なぜなら、知識を得たり理解をしても、その人の在り方は変わらないからです。
真理を得るとは、真理に成る、ということを意味します。真理を得れば、否応なくその人の在り様は変化するのです。それは例えれば、人が本当に変化するためには体験が必要だということと同じです。
恋愛の本を読んでいくら知識を得たり理解をしても、実際に恋愛をすることとは違います。真剣な恋愛をすれば、その人の在り様は必ず何等かの変化を生じます。ですから、真理を得るためには勉強ではなく瞑想が必要なのです。
瞑想の中で真理を体験するしかありません。ですから、表題の「真理を得る瞑想」とは、真理の体験を得る瞑想だということになります。それは、逆の言い方をすれば、瞑想して何らかの気づきを得たりイメージを観たり特殊な感覚を感じたりしても、そういったことだけでは、真理を得るためには不十分だということです。真理を体験する瞑想でなければならないのです。瞑想して真理に成る、ということが必要なのです。
しかし真理を得るということは、実は単に瞑想体験だけに止まるものではありません。瞑想中の体験だけでは、それが自我による無意識の誤魔化しである可能性もあります。自我は想像を絶するほどに巧妙ですから、その瞑想体験が本物なのか、それとも自我によって作られたものなのか、それを体験そのものによって証明することは、自分にも他者にも不可能なのです。
ですからどうしても、その体験が本物であるか否かを確認する必要があることになります。そのように難しい証明は、単一の何かある証拠によってできるものではありません。長い時間をかけて、生きる中でのプロセスとしてしか可能にならないのです。つまり、毎日の日常の中での、自分の在り方、生き方、が真理へ近づいていくことによってしか確認できないのです。
真理を得るということについては、結局は、「瞑想する」、というだけでは限界があり、「生きる」ということの中にこそ、最終的な可能性があることになります。だからこそ真理を得る道は長い道なのです。一生の道なのです。
ですから、「真理を得る瞑想とは」の答えは、真理を得よう、というパッションを持続しながら今日の瞑想をし、瞑想によって得た体験そのものとしての自分が今日を生き、そしてその実体験と意識をもって明日さらに瞑想を続ける、そういう瞑想だということになります。