瞑想をしているときに、理由のない悲しみが湧いてくることがあります。理由が分からないので不安になったり、その理由を探し求める人がいまが、瞑想体験としてそのような悲しみが出てくることには、それなりの理由があるのであって、不安になったり、具体的な理由を見出す必要はありません。
このような体験を通して学ぶべきことは二つあります。第一に、理由が無いまたは忘れている、ということはその出来事自体は重要ではないということです。ある出来事や体験によって悲しみというエネルギーが作られ、それが現在も自分の内側に存続していたということですから、そのエネルギーの処理が問題になるのであって、原因が問題になるわけではないのです。また、原因となった出来事や体験が分かったとしても、悲しみそのものがなくなるわけではありません。
人間は知性の動物なので、どうしても原因を知ることによって納得したいのです。しかし、理由のない悲しみのような体験の原因を、納得する形で理解することはできません。似たような体験は他にも人生の中でいろいろ遭遇するものです。納得ができない理不尽な、または原因が分からないマイナスのエネルギーにさらされることは生きている限り誰にでもあります。
そういう場合に人間はえてして、無理やりに(多くの場合は無意識に)自分を納得させる原因や理由を考え出すものです。運命だったとか神の意志だったとか、天罰だとか、そういった類のものです。しかし、そのような納得の仕方は副作用を生み出すことがあります。神や運命に自らの人生をゆだねて自分で切り開く努力を怠ったり、自罰に縛られたり、反省することなく他者を責めたり、といったものです。結局はどれが真実だかわからないのですから、最良の受け止め方は、あるがままに、その理由を知ることなく、そのマイナスエネルギーを消化することです。
つまり、何があったのか、または無かったのか知ることはできないが、今現存しているこのマイナスエネルギーをあるがままに受け入れる、ということに集中するのです。納得できない、分からない、ということを受け入れるのです。
そうすると、人間という存在そのものが悲しみを作り出す存在だということを理解することができます。そしてそれが理解できたときに初めて、人は本当の愛の中に生きることが可能になるのです。
第二に、そのような悲しみを感じるのは、心が自分自身に対して開かれてきたからだということを理解することです。瞑想によって心が開かれるのは、自分の外側に対してだけでなく、内側に対しても起きることなのです。そして自分自身に向かって心が開かれたときに初めて、自分を愛することができるようになります。その意味では、瞑想によって具体的な理由のない悲しみを感じることは、喜ばしいことと言えます。