人間が直面する問題は、どのような問題であっても、すべて自我がその根本原因です。ここで言う自我とは、他者との関係によって理解している自分を意味します。本来の自分ではなく、他者との関係によって定義付けられている自分です。
子どもに対して親であるとか、夫(妻)に対して妻(夫)であるとか、会社の中での責任者としての自分とか、そういった役割によって定義される場合や、あの人より優れているとか劣っているとか、富んでいるとか貧しいとか、そういった比較によって定義つけられる場合もあります。自分自身を直接に見て理解するのではなく、いろいろな要素や局面によって、他者との関係を通して自分を定義(理解)しているとき、そのように定義された自分を自我と呼びます。
自我として心身が働くと、他者を通した自分としてしか存在しないので、その思考も行動も本当の意味で自分自身のものにはなり得ず、非常に不安定(他者との関係次第)になります。また他者次第なので、他者の意見や見方の変化によって自分自身への定義(理解)が変化してしまうという意味でも、不安定な自分にならざるを得ません。
ですから、問題があるときに、その根本原因を自我に求めることは常に正しいわけです。しかしそのことと、現象レベルで問題を解決したり、その時々の状況にうまく対応することとは別問題です。なぜなら、社会の中で生きている限り、他者との関係から完全に自由になることは不可能であり、その結果、日々の生活の中では絶え間なく他者と関わりも持ちながら生きている、つまり、現実の中で自我は常に働いているわけです。
自我が問題の根本原因だからといって、自我を否定してしまえば、現実に生きていくことは不可能となります。ですから、問題が起きたときに自我のせいだと言って済ませている限り、問題解決の具体的な行動がとれなくなってしまうのです。
ですから本当の幸せを求めるのなら、すべての問題の根本原因である自我から自由になるために瞑想することは必要不可欠ですが、同時に、完全に自由になっていない今この場での対処としては、自我が働いている状態のまま、どうやって問題を解決するか、どうやって上手に生きるか、ということを考え実行する必要があるのです。
その意味で、問題や失敗を自我のせいにしないことが必要です。瞑想を熱心にしていると、根本や本質ばかりに意識が片寄り、問題があると、「自我のせいだ、自我から離れなければ」と考えたり主張したりする人がいますが、それだけでは、本質論だけで現実に対処はしない、ということになってしまうのです。それはあたかも、不注意で怪我をした人(自分)に、「不注意だからいけないのだ」と諭して傷の手当をしようとしないことと同じです。
自我のせいにするだけでは、いつまでも問題をかかえ失敗を繰り返すことになります。ですから、瞑想を続け自我から自由になる努力を続けながら、失敗したり問題があるときには、自我のせいにしてそのままにせずに、今の自我がはたらいている状態のまま、どうすれば失敗を繰り返さないか、問題を少なくできるか、それを考えることが重要なのです。
その際に、具体的効果的な言動の解決策を見出すために、どのような自我が働いてその失敗や問題が生じたのか、その意味で自分の自我を知ることは、当然のことながら必要となります。