瞑想の道を歩み始めて成長し幸せへと進むときには、大きく分けて三つの段階があります。第一段階は、当然ながら瞑想のやり方や考え方を理解することとその実践です。ここで間違ったやり方や理解をすると、進歩が困難になるだけでなく、ときとして危険な方向へ進むことさえあるのです。
やり方としては、座法や呼吸法などはいろいろとありますが、それほど本質的に重要なものではありませんし、正しいとか間違っていると言えるほど正確にしなくても弊害はないものです。形にとらわれる必要はないのです。
やり方で最も重要なのは、無理をしないことと継続することです。この二つは関連しているとも言えます。無理をすれば継続は困難になり、継続すれば無理が無理でなくなっていくからです。
無理をするとは、自分のその時の心身に一定以上の負担をかけることです。昨日は1時間瞑想できたが今日は10分で辛くなったという場合は、昨日は1時間でも無理でなかったが今日は10分以上することが無理なのです。
ですから今日は10分で瞑想を止めればよいのです。しかし、少しでもやりにくいからといって毎回すぐに止めていてはどんなことでも自分のものになりません。ですから実践上は少しの無理はしなければなりません。その程度を自分で判定する必要があるわけです。大きな無理をすれば、そのときはできても長い間の継続は不可能になります。だからといって小さな無理もしなければ、逆の意味で継続することが困難になります。
なぜ継続することが大事なのかといえば、瞑想は多くの場合、始めてすぐに効果が出るものではないからです。長い間継続することで初めて自分でわかる変化(成長)が実現するのです。またそれ以上に本質的に継続が重要なのは、継続することによって、瞑想が幸せになるための手段にとどまらずに、それが幸せそのものとなるからです。
瞑想の道の最終地点では、現実生活の状況に関係なく、瞑想状態そのものによって幸せであり続けるようになります。そこまでいけば、瞑想を毎日していても、それは瞑想を継続実践しているというよりも、あなたが瞑想そのものになっている、ということになるのです。ですから、毎日瞑想を継続するのは、その地点に行くまでの手段に過ぎないということになります。
第二段階は、自我の理解とその把握です。瞑想の中で実践する三番目のこととして「自分を観る」ということがあります。そのために二番目にすることとして「想いから離れる」があるわけですが、想いから離れた状態の自分を観れば、そこには想いを作っている主体者としての自分を見出すことができます。
その主体者こそ自我なのです。その主体者が想いを作り出す原動力は、自分と他者との関係です。詳細は拙著を読んでもらえばよいですが、この自分と他者との関係を原動力として作り出されるものが想いだとすれば、自分という概念も想いが作り出したものなのですから、結局想いを作り出す主体者としてとらえた自分というものも自我である、ということになります。
この自我というものによって、つまり他者との関係によって、人間は喜びも得るし苦しみも得ることになります。他者(人間とは限らず状況や概念も含む自分以外のすべての存在)は私たちのまわりに常に存在します。そして他者は基本的には自分の自由にはなりません。その結果、自我というものの成り立ちが他者の存在を介在させることで実現しているために、喜びも苦しみも本質的には自分では自由にできないことになるのです。
ですから、絶対的な幸せを求めるならば、自我から自由になるしかないことになります。すなわち、想いから自由になるしかないのです。それこそが、科学も哲学も、宗教も道徳も、これまで人間に与えることのできなかった絶対的幸せを、瞑想が与えてくれる理由なのです。
第三段階は、生活の中での瞑想者としての在り方です。第二段階までで自我の働きを理解し、それから自由になる努力をしていても、現実生活の中で幸せにならなくては意味がありません。人間が生きるということは、現実の中で、社会の中で、無数の他者と関わりながら生きるということです。ですから、日々の生活の中で自我(他者との関係の中で機能する自分)は絶え間なく働いているのです。従って現実の中では、自分にとって必要な自我は十分に使い、好ましくない自我の働きからは自由になることが必要になるわけです。そのためにも、私たちは想いから自由になるしかありません。自分の想いが自分の支配者になっている状態から、自分が想いの支配者になるのです。そのとき、人間は自我から自由な状態、すなわち悟りを開いた状態、つまり絶対幸福の中で、生きることができるのです。